80年代の相鉄の思い出を綴ってみました。

たーぼうです。実家が横浜の相鉄沿線にあり、80年代から90年代前半まで通学や遊びとかに利用していました。今回は特に80年代の相鉄線について記憶していることを書いてみます。

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相鉄ってどんな路線?

相鉄(相模鉄道)は本線(横浜ー海老名)、いずみ野線(二俣川ー湘南台)、新横浜線(西谷ー羽沢・横浜国大前 ※現在新横浜まで延伸工事中)の3路線を持つ大手私鉄。全線神奈川県内なので県民以外には、ほとんどなじみのない私鉄だと思うけど、最近はJR直通線が開通して新宿でもネイビーブルーに塗装された相鉄の車両(これかなり目立ちますね!)をたまに見るようになったから、昔よりは東京都民への知名度も高まったかもしれないですね。

相鉄の電車を東京でも見かけるようになった。それにしてもこの電車何で前面にエアインテークが付いてるのだろうか?って最初思いました。多分これダミーですよね?

沿線に有名な観光地があるわけでもなく、クロスシートの特急専用車両が走っているわけもない、沿線住民の通勤通学需要がメインの地味な路線。ただ神奈川県民だったら二俣川の免許センターに行くために乗ったことがある人は結構多いのではなかろうか。

阪急沿線から相鉄沿線に引っ越した時の印象は?

たーぼうは1980年に10歳の時に阪急沿線から相鉄沿線に引っ越したのだが、最初に相鉄乗った印象はえらい遅い電車だなと思ったことですね。阪急神戸線とか100km/h以上でぶっ飛ばしていたのに比べるとかなりのギャップを感じました。最寄り駅が西谷で駅間距離の短い各停にばかり乗ってたせいもあるのかもしれないけど、でも線形のせいかたまに乗る急行も阪急に比べればやっぱり遅く感じましたね。

思えば、当時相鉄線に直接ライバルになるような競合路線が無かったのも要因かと思います。(強いて言えば今は横浜ー湘南台で横浜市営地下鉄と競合してるかな。横浜線もやや並走していると言えば並走しているけど、微妙に離れているし行き先が異なるのでライバルって感じはないですね。)

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当時の路線・ダイヤは?

当時いずみ野線はいずみ野が終点だった。

当時の路線は本線(横浜ー海老名)といずみ野線(二俣川ーいずみ野)の2路線だった。いずみ野線がいずみ中央まで延伸されたのが1990年だったけど、今でもいずみ野線はいずみ野が終点という記憶が頭に残って消えないのですw。もちろん当時は相鉄・JR直通線とか計画すらなかった時代ですね。

当時の相鉄ストアには平塚までいずみ野線が延伸される予定線が描かれた沿線案内図が張ってあって、たーぼう少年は相鉄が横浜ー平塚でJR東海道線と競争する未来に胸を膨らませていたものです(笑)。でも子供ってなんでこんなに競争が好きなんでしょうね。

今に比べればシンプル極まりなかった当時のダイヤ

当時の列車種別は各停と急行のみで、急行は横浜ー二俣川間がノンストップなのは今も変わらない。横浜駅からだと平日日中は各停と急行が10分おきに交互に出発していた。ちょうど急行海老名行き出発の1分後に各停いずみ野行きが出発して、二俣川で急行海老名行きが先行していた各停いずみ野行きと待ち合わせを行うダイヤ。ラッシュ時も種別が増えるわけでもなかった。ただラッシュ時には各停は星川で急行の通過待ちを行っていた。

今と比べれば当時の相鉄のダイヤは究極にシンプルで分かり易いダイヤだったと思う。横浜から見れば目的地が平沼橋~鶴ヶ峰だったら各停に、それ以外だったら急行に乗れば良かった。(早朝深夜は除く)

最新の相鉄の時刻表を見ると何でこんなに列車種別が増えちゃったの?ってびっくりしますね。「各停・急行・特急・通勤特急・通勤急行・快速」6種類もある・・隔世の感。でもこれ、「横浜ー海老名の速達需要も満たしたいよね」、「鶴ヶ峰から横浜まで各駅停車ってきついから鶴ヶ峰にも優等種別を停めようか」、「西谷もJR直通線との分岐駅になったから優等種別も止めなくちゃだよね」とか、いろいろな要望を満たそうとして四苦八苦した結果なのでしょうね。一度初心に戻って列車種別を3つか4つくらいに整理してもいいような気もするけど。

当時2面4線が意味不明だった西谷駅

たーぼうの実家の最寄り駅は西谷だったけど、西谷ってここ数年で相鉄で最も出世した駅なんじゃないでしょうか?なんと路線分岐駅・特急停車駅になったんですもんね。西谷駅の2面4線構造も、JR直通線に乗り入れてからようやくフル活用された感がありますが、80年代の西谷駅って外側の1番線と4番線が全く使われなかったんですよね。たまに、回送電車や事業用車両、電気機関車が停車しているのを見かけたけど何で西谷駅が2面4線で作られたのか当時不思議に思っていました。

相変わらず変わらない西谷駅の北側。

ちなみに西谷駅の北側って今でも80年代とほとんど変わっていないですね(笑)。駅を出て狭い路地を抜けて国道16号の歩道橋を超えると、未だに軽自動車がやっと通れる位の狭い道と畑が広がる駅前とは思えない光景が・・この風景は下手したら戦前から変わっていないのでは?。。当時からわざわざこんな一等地で畑をやる必要があるのかよくわからなかったのですが、この狭い道を抜けると今度は一転して興和台の高級住宅街が現れるのが面白い所ですね。

昭和とほとんど変わらない西谷駅北側の光景。
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当時の車両達の記憶

相鉄は典型的な通勤通学路線なので鉄オタが群がるような車両も無かったけど、特徴を挙げると、当時既に車両が20m4扉車で統一されていたこと。旧式の釣りかけ駆動車両も無かったこと。あと編成が8両か10両で統一されていたことかな。また1987年に冷房化率が100%でを達成してこれは関東私鉄では一番早かった。そういう意味ではかなり先進的な鉄道会社だったと思う。(鉄道趣味的にはつまらないかもしれませんが)

当時たまに近くを走る横浜線に乗ることがあったんだけど、当時103系で冷房車と非冷房車が混結されていたし、今のように快速も無かったので、やっぱり全車冷房かつ急行もある相鉄のほうが進んでいるよなあって思ってました。

というわけで当時の車両を記憶のあるものをピックアップしてみました。当時最新鋭だった新7000系すら今は全廃されてしまっているのですよね。これが時の流れってやつですかね。。

3010系

10両編成が1本しかなく当時かなりレアな編成でしたね。この車両が来たときは何故かアタリだと思っていましたw。尾灯が円形だったのが6000系との相違点だった記憶があるのですがWikipediaによれば尾灯も6000系と同じ角形に変更されたんですね。車体自体は旧6000系とほぼ同じだった。

旧6000系

これも好きな車両だったな。相鉄初の20m4扉車で以降の相鉄の通勤車両の基礎となった車両ですね。高度経済成長で増え続けた需要を支えた立役者でしょう。鋼製車両で外観は若草色とオレンジとグリーンの塗装がされていました。当時からこの色分けってなんかパッとしないなと思っていました。相鉄の色分けってなんか迷走してますよね。でもようやくYOKOHAMA NAVY BLUEで統一されるのかな。

レア車両として1両だけ先頭車のみアルミ車両と言う6021系という車両が異彩を放っていました。この車両もその後相鉄の車両がアルミ製で作られる礎となった車両ですよね。

新6000系

6000系とはかなりデザインが変わって当時の私鉄では日本最大級の車体幅で登場した車両です。前面デザインが後の2100系、5100系、旧7000系に繋がるいわゆる「相鉄顔」になった最初の車両ですね。

ほほえみ号とか緑園都市号とか独特な塗装な電車もありましたね。車内に沿線の小学生の書いた絵とかが展示されてた気がします。

2100系・5100系

旧型車両の足回りにアルミ車体を新製して載せた車両群。2100系は登場直後は釣りかけ駆動だったけどたーぼうは釣りかけ駆動の2100系に乗った記憶は無いですね。5100系はもともと湘南型デザインの鋼製車両だったのを足回りに新製のアルミ車体載せた車両。顔はいわゆる「相鉄顔」だけど7000系に比べてやや前照灯が内寄りだった。

7000系・新7000系。

7000系は80年代当時の最新鋭車両ですね。たーぼうの記憶で未だにこの車両が最新鋭というイメージがあります。もう2019年10月に運用を終了されたとのこと。

80年代当時最新鋭だったのは7000系

新7000系は1986年にデビュー。前面デザインが当時の流行りっぽいデザインになった。たーぼう的には新6000系から続いた「相鉄顔」が新7000系で終わってしまったのがちょっと寂しかった。大体新7000系すら2020年に運用終了したこと自体、10代に相鉄沿線を過ごしたたーぼうとしてはにわかに信じがたいですね。昭和は遠くになりにけりですな。

新7000系 80年代風に言うと前面がナウいデザインになった。※写真は新塗装。

まとめ

というわけで、80年代当時の相鉄の記憶を綴ってみました。本当は写真があれば載せたかったですが身近な路線ほど写真って撮ってないんですよね。でも今後実家に帰ったら今の相鉄の駅や車両を撮ってみようかなと思う。

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今回はこの辺で。最後までお読みいただきありがとうございました。